グッチ創業者「グッチオ・グッチ」とは?名言からお家騒動、グッチ一族に起きた大事件まで一挙解説!【コラム】について
ハイブランドとして常に革新的なデザインを発表するGucci(グッチ)。そのブランド名は、グッチの生みの親である「グッチオ・グッチ」が由来であることはご存知でしょうか。この記事では「グッチオ・グッチ」の人となりや、グッチの歴史について解説します。
世界中の人に愛され、高い人気を誇るグッチですが、その裏にはお家騒動や映画にもなったグッチ一族の暗殺事件など、何かとスキャンダラスな一面もあります。知られざるグッチの歴史を知れば、ブランドにもより愛着が沸くはず!「グッチオ・グッチ」やグッチ一族の波瀾万丈な歴史に迫りましょう。
「グッチオ・グッチ」はGucci(グッチ)の創業者
「グッチ」の創業者である「グッチオ・グッチ」は、1881年にイタリア・フィレンツェで誕生しました。麦わら帽子を作る会社の息子として生まれたグッチオですが、家を継ぐことなく、1898年、17歳のときにロンドンに渡り生活を始めます。今もロンドンの最高級ホテルとして知られる「サヴォイ・ホテル」で皿洗いとして働き始めたグッチオは、その後ウェイターに昇格。王族や貴族など上流階級の客人の接客をしながら、彼らの身のこなしやファッションを観察し、その美的感覚を磨いていきました。
1901年、20歳でフィレンツェに帰国したグッチオは、アンティークショップなどで働いたのち徴兵されます。第一次世界大戦後には高級革製品を扱う「フランツィ」で働き、革の知識と扱い方を学びました。
「フランツィ」で学んだことを活かして、1922年自らのお店をオープン。1923年には自らの名を関した「グッチ」を立ち上げ、主にイギリスから輸入した革製品の販売と修理を行うようになりました。その後、バッグのデザインも始めるようになり、今も残る「GGロゴ」が刻印されたアイテムを販売。当時は品質保証のためにGGロゴがつけられました。
「グッチオ・グッチ」の逸話
戦争という混乱期でも、グッチを守り続け、今ある人気の強固な基盤を作った「グッチオ・グッチ」。そんな彼は逸話を多く持つことでも知られている人物です。真偽は不明ですが、2つの有名な逸話を紹介します。エリザベス2世への大胆発言
イギリスのエリザベス2世がイタリアを訪問し、グッチの店を訪れた際、女王の侍従が「グッチオ・グッチ」に対して陛下にプレゼントするよう進言しました。グッチオは女王にバッグを贈りましたが、女王一行が店を去ったあと、報道陣の前で「金も払わない乞食は二度と来るな」と言ったという話が残っています。職人とその家族への愛
王族への驚くべき発言の逸話が残っているグッチオですが、職人に対してはしっかりと愛を持っていました。その証拠として、かつて「職人が材料費を払えば家族や恋人にバッグを作っていい日」があったことが、逸話として残っています。当時グッチの製品は、庶民に手の届きにくいものであったため、職人や家族への日々の感謝として、この日を制定していたと言われているそうです。「グッチオ・グッチ」亡き後のGucci(グッチ)
創業者である「グッチオ・グッチ」が亡くなってからも、グッチは成長し続け、今でも誰もが知るハイブランドとして、名を馳せています。しかし、グッチオが亡くなって以降のグッチは、紆余曲折があり、スキャンダルが世間を賑わせたこともありました。「グッチオ・グッチ」が亡くなってからのグッチについて見ていきましょう。1953年、72年の生涯の幕を閉じる
「グッチオ・グッチ」は晩年、グッチの息子の一人であった「アルド・グッチ」の力を借りながら、グッチを世界中に愛される一大ブランドに成長させました。1951年にはアルドが積極的に進めた海外進出第1号店として、ロンドンに店舗をオープンさせています。
「GG」ロゴやダイヤモンドパターンを生み出したほか、今も残る人気モデルのベースとなったデザインの誕生を見届け、1953年に72歳でその人生に幕を下ろしました。「グッチオ・グッチ」死去の15日前にはニューヨークにも店舗をオープンしています。その後、1963年にパリ、1965年にビバリーヒルズに店舗をオープン。「グッチオ・グッチ」は、Made in Italyの旗をアメリカに初めて立てた人でもあります。
グッチオの息子たちによる黄金期
「グッチオ・グッチ」が亡くなる前から、グッチオの三男である「アルド・グッチ」が彼の元で働いていました。世界各国からフィレンツェを訪れていた顧客が購入しやすいよう、グッチオの反対を押し切り、海外戦略を行ったのもこの「アルド・グッチ」です。セレブに向けた展開を行うため、ラグジュアリーな店舗設計にも力を入れました。また俳優として活躍していた末っ子の「ロドルフォ・グッチ」も、1950年頃に俳優を引退し、アルドとともに家業を手伝いはじめます。俳優時代のコネクションを活かし、ハリウッドのセレブリティなどにもグッチを広めていきました。
グッチオは生前、二人をライバルのように競争させていたと言われています。切磋琢磨し合った二人が、グッチオ亡き後にグッチの黄金期を築き上げたのです。
第二次世界大戦、ピンチをチャンスに変える
グッチオがまだ存命だった頃、第二次世界大戦が勃発しました。革製品を手掛けていたグッチは、革不足に悩まされるようになります。その際に知恵を絞って生まれたのが、今も人気のあるコーティング加工したキャンバス地のバッグです。革の不足というブランドにとってのピンチから生まれたキャンバスバッグは、注目を集めるようになりました。革不足が続いていた戦後には、革の持ち手の代替として竹を用いたバンブーバッグを発表。今でも人気の高いバンブーバッグも、ピンチから生まれたバッグだったのです。
ピンチをチャンスに変えることで、グッチはその人気を不動のものとしていきます。
グッチオの息子や孫たちによる権力闘争
グッチオの6人の息子のうち、三男・アルドと五男・ロドルフォが跡を継ぎました。二人は反発したこともありましたが、バランスを保ちながらグッチを成長させます。しかし、ロドルフォが亡くなったあと、彼の一人息子・マウリツィオがグッチの株50%を相続。マウリツィオ自身はおとなしい人柄だったのですが、彼が「パトリツィア・レッジャーニ」と結婚したことがグッチの運命を一変させるきっかけとなります。一方、アルドにもジョルジョ、パオロ、ロベルトという3人の息子がおり、次男のパオロは兄弟のなかで最もデザインの才能がありました。しかし、パオロが独断で低価格路線の「パオロ・グッチ」を立ち上げたことで、アルドが怒りパオロをグッチから追放。パオロは父・アルドに対して、強い恨みを抱くようになります。
それに目をつけたのが、グッチの社長夫人の座を虎視眈々と狙っていたパトリツィアでした。自身の夫・マウリツィオとパオロが持つ株を合計することで、過半数の株を有し、アルドを社長の座から引きずり下ろすことに成功します。
マウリツィオが社長となりましたが、アルドは黙っておらず、株の相続時のサインが偽造であるとして告訴。マウリツィオは社長の座を一旦降りますが、今度はパオロがアルドを告訴し、グッチ一族の権力闘争は世間に知られていくのです。
グッチ家からグッチ経営権が失われる
パオロに告訴されたアルドは80代で収監されてしまいます。アルドから告訴された裁判の結果が出たのち、マウリツィオは会長としてグッチに復帰。しかし、アルドの長男・ジョルジオと三男・ロベルトがマウリツィオに不信感を抱くようになります。二人はそれぞれが保有していた株を、アラブの投資会社に売却。その後、パオロも保有株を売却したことで、グッチ株の過半数はグッチ一族以外の手に渡ります。一連のお家騒動でグッチの評判はガタ落ちになり、マウリツィオも経営の自信を無くして、保有株を売却。すべてのグッチ株がグッチ一族の手から離れ、1993年にグッチ家はグッチから完全撤退しました。
このお家騒動の最中、1990年に「アルド・グッチ」は死去しています。
ケリンググループの一員となる
1999年、PPRグループがグッチ・グループの株を42%購入し、グッチはPPRグループの傘下に入ります。この時期にPPRグループは、イヴ・サンローランやボッテガ・ヴェネタも傘下に収め、大きく成長していきました。そしてお家騒動の最中に若手としてグッチに入った「トム・フォード」がグッチの新たなスタイルを確立し、グッチは再びハイブランドとしての価値を高めていきます。当時「トム・フォード」の下でデザイナーをしていた一人が、革新的なコレクションを次々と生み出している「アレッサンドロ・ミケーレ」です。
PPRグループは2013年に社名変更し、ケリングとなりました。
「レディー・ガガ」主演映画House of Gucci(ハウス・オブ・グッチ)
2022年1月、「レディー・ガガ」主演のHouse of Gucci(ハウス・オブ・グッチ)が公開になりました。これはお家騒動でも紹介したグッチ崩壊の発端となった悪女「パトリツィア・レッジャーニ」を題材にした映画です。グッチのお家騒動やその後起きた殺害事件などを知らない世代も増えてきている今、映画の公開は大変話題となりました。マウリツィオとパトリツィアの出会いから、富と名声に翻弄されるグッチ一族を描き、誰もが知るハイブランドに起きたスキャンダルをエンターテイメントに昇華させています。
2022年5月には、DVDとブルーレイが発売されました。グッチを身に纏ったガガ扮するパトリツィアのファッションにも注目してみてください。
事件の詳細
グッチ一族がグッチから撤退した1995年、ロビーを散歩していたマウリツィオが襲撃されます。この時4発発砲され、マウリツィオは命を落とします。
捜査線上には当初からグッチ一族の関与が上がっていたものの、犯人はなかなか捕まりませんでした。しかし1997年1月、警察は、事件当時マウリツィオと別居していたパトリツィアがマフィアを雇ってマウリツィオを殺害した、として逮捕。連行されるパトリツィアの手にはグッチのバッグがありました。
パトリツィアの現在
1997年に逮捕されたあと、懲役26年でミラノにあるサンヴィットーレ刑務所に収監されたパトリツィア。収監中は自殺未遂も起こしますが、2016年に出所。模範囚として過ごした彼女は、刑期短縮での出所となりました。出所後パトリツィアは、マウリツィオの財産から2200万ドルを受け取っています。これはマウリツィオの生前、離婚した際にはマウリツィオの財産から毎年100万ドル以上を受け取る契約を交わしていたためです。
現在はミラノでオウムを買いながら、悠々自適に暮らしています。出所後はインタビューも受けており、刑務所では特別待遇を受け、家族・友人と自由に会ったり、労働を免除されていたりしたことを告白しました。
パトリツィアとマウリツィオの娘
パトリツィアとマウリツィオにはアレッサンドラとアレグラという二人の娘がおり、母が父親を殺害したとき、二人はまだ10代でした。アレッサンドラが20歳、アレグラが16歳だった1997年に、パトリツィアが逮捕されましたが、二人は2004年に「パトリツィアは当時精神的に正常ではなかった」として再審を訴えています。逮捕後も母の味方であり続けた娘たちですが、パトリツィアの出所後、二人がマウリツィオの財産権を持っていたことで母と娘のバトルが勃発。パトリツィアが受け取る契約になっていた2200万ドルを巡ってのトラブルでしたが、最終的には最高裁が「娘たちが母に2200万ドルを支払わなければならない」という結果になっています。
【まとめ】
グッチの創業者である「グッチオ・グッチ」の人生や、グッチオ亡き後のグッチの歴史について解説しました。ハイブランドとして確立した地位を持つを持つグッチですが、権力争いから殺人事件にまで発展した歴史があるとは驚きですよね。スキャンダラスな一面もあるグッチですが、ブランドの魅力は現在も高く、多くの人々に愛されています。製品と職人を愛したグッチオの思いは、今後も受け継がれていくでしょう。スキャンダルとはいえ、映画になるのもグッチの魅力があってこそ。グッチの歴史に興味がある人は、ぜひHouse of Gucci(ハウス・オブ・グッチ)も鑑賞してみてくださいね。